『ちいさいおうち』

ばーじにあ・りー・ばーとん ぶんとえ
いしいももこ やく

Tさんと知り合って、まもなく20年になる。お互いの居住地域は異なるが、数年毎にその存在を確認するのが、私の習慣となっている。Tさんは、「人生を 豊かにするキーワードは、旅と音楽と外国語」などの洒落た言葉をエアメールで送ってくるような粋な人だ。これまで、Tさんの短く鋭い一言で、どれだけ喚起 させられたことか。
今年は日本を襲った記録的な猛暑の東京で再会した。前回と同じく品川駅前にあるホテルの日本料理店で。Tさんの、Tさんとの懐かしい想い出がたくさん詰 まったこのホテル。「今年の秋でこのホテル、閉館されるらしいんですよ。残念ですが、この次に横井さんと会うときは、別の場所を探さなければなりません ね。」いつものように、こんな会話から始まり、お互いの近況報告をしあう。Tさんは今年の初め、体調が優れないことを理由に10年過ごしたベトナムから東 京の自宅に戻られたばかりだった。私は予ねての望み「夏の文学教室」へ参加するために上京していた。
「Tさんは何歳で終戦を迎えられたのですか?」
私の唐突な質問にもかかわらず、Tさんは丁寧に答えてくれた。

 「ちょうど小学校の4年生でしたね。私は品川で生まれて品川で育ちました。遊ぶところもたくさんあって、品川は本当に田舎 だった。当時この辺りは馬車が走っていましたよ。戦争のとき、弟や妹たちは疎開したんですけれど、私はお兄ちゃんだったから、父と一緒に、家を守るため、 品川に残りました。ですが、家が空襲で焼けてしまったんです。そのときは、本当に悲しかった。その後、父が何処からかトタンを集めてきて、小さな小屋を 作ってくれたんですよ・・・・・」

これまで、私とTさんとの長い付き合いの中で、意図的ではないにしろ話題にならなかったテーマ「戦争」。なぜ、私は突然こんな疑 問をTさんに投げかけたのだろうか。それは文学教室の講義に起するところが大きい。今年のテーマは「『昭和』という時間」であった。昭和時代のエンディング部分しか生きていない私にとって「昭和」という時代は「歴史」である。よって未知である。文学教室の講師による講演を通じ、多くの講師(ほとんどが作 家)が異口同音に語った一文、「何歳で終戦を迎えたか、それがその作家の思想を決定している。」私は単に講義の受け売りをしたに過ぎないのだが、Tさんの 奥深いところにある前向きな姿勢や隠れた忍耐力を感じていた故に、このような問いを発信したのだった。
平和な時代に生を受けた私は、個々人の思想たるものは、その人が育った家庭環境、個人的体験、後天的な教育、読書経験などにより培われるものだと思い込 んでいた。「終戦を迎えた年齢」という社会的環境のなかに位置づけられる絶対的事実に、左右されるなどと考えたこともなかった私の目から、うろこが何枚もハラハラと落ちていった。

子どもの頃によく読んだ『ちいさいおうち』を久しぶりに開いてみる。そういえば、私の描いたおうちは、このちいさいおうちをモデルにしていたなあ。数十年も前の記憶が、私の中に甦る。

「むかし、むかし、ずっといなかのしずかなところにちいさいおうちがありました。」(『ちいさいおうち』冒頭抜粋)

一枚一枚ゆっくりとページをめくる。『ちいさいおうち』とTさんの話がだんだん重なって私の頭の中をぐるぐると回っている。私の中のおうちの舞台は、も ちろん品川だ。何にもなかった品川に、馬車が通るようになり道路が整備されたと思ったら、バスや車が昼夜お構いなしに走り、おうちの下には地下鉄が縦横に交差した。そのうちに新幹線も止まるようになり、そして、近い将来、東海リニアの始発駅となる運命の品川。

1909年生まれのバージニア・リー・バートン、なぜ、どうやって一世紀も先の品川が、予想できたのだろう。

2010年10月4日
ある日の日記より
Tさんに贈る

Tさん、今何を見ていらっしゃいますか?10月の終わりにTさんが突然香港へ遊びにいらしたとき、私は「Tさんについて作文しました。暇なときに読んで ください。何時発表できるかわかりませんが」と、この作文をお渡ししました。そのときTさんは私に、「文章は寝かさなければいけない。」と言われましたよ ね。家に帰ってから、私はこの言葉とともに原稿を引き出しにしまいました。数日後のメールで、「横井さんの作文読ませていただきました。次回ゆっくりコメ ントさせていただきます。」とあったきり、音沙汰がなかったので、1月の発表に向けて、私は推敲を始めてしまいました。待っても待ってもお返事がありませ んでした。予定通り1月に発表します。
まだ、Tさんに直してもらいたいところがたくさんあります。確認したいこともたくさんあります。これから、そう思ったとき、私は天に向かって作文を読み上げます。大きな声で読みますから、よく聞いていてください。そして今まで通り時々遊びに来てください。私達の間に、もう国境はないはずですから。
これまで育ててくださって、本当にありがとうございました。

2011年1月27日香港にて
横井ルリ子