『こすずめのぼうけん』

ルース・エインズワース作
石井桃子訳
堀内誠一画

旧正月が終わり、今日は次女の登校日。久しぶりに香港中が冷え込み、道行く人々も完全防備で真冬の装い。
「今日は寒いね」
という話をしながら、小雨の降る中マンションの外へ出る。いつも通る生け垣の脇に
「あっ、何か落ちている」
と最初に次女が駆け寄った。遠目で私はそちらを眺む。即座に後悔の念が脳裏をかけ巡る。
「あっ、すずめだ!もう死んじゃってる。かわいそう」
娘はその場を離れず、じっと鳥の亡骸をくい入るように見入る。一瞬だったが、すずめが少し動いたような気がした。風のせいではないだろうが気のせいだろうか。
「学校に遅れちゃうよ。早く行こう。」
私は娘をせかした。彼女は
「でも…」
後ろ髪引かれている。
「寒かったから、きっと耐えられなかったんだね。病気かもしれないし」
私は娘を説得にかかったが、全く受け付けない。そのとき、又一瞬すずめがぴくっと動いた。私たちは異口同音に
「まだ生きてる!」
と確信し、地面に横たわっていたすずめをじっとみつめる。まだ息があった。かすかに目を開け、私に何か訴えている。私は生まれて初めてすずめに触れた。私 は鳥類が苦手だった。しかし、今度は娘にせかされて、言われるままに拾いあげ、タオルで包んだ。少しは暖かくなるかなあ。私たちは雨の当たらない場所を選 んで、再びすずめを横たえた。コンクリートの地面に手を触れる。冷たい。こんなところに寝かしたら、底冷えして、更に弱ってしまいそうだ。時間は迫ってい る。
「どうしよう?」
私は判断に困った。かつての私なら、迷わず行動していた。あの名なしの子ねこのときのように。しかし、私も例外なく大人になっていた。大人になるということは、子どものときの純な心を少しずつ忘れていき、保持的な社会性を身につけていくことなのだと痛感した。
もしこの場面で、娘が私の隣りにいなかったら、私はこの死にそうなすずめの生死を確かめるという作業すら省略し、通り過ぎていたに違いない。娘は子どもの純粋な心をもって、私に勇気とチャンスを与えてくれた。
「学校に遅れちゃうけど、大丈夫?」
私は娘に確かめた。
「いいよ、学校くらい」
予想通りの答えが返ってきた。娘はまさに20年前の私であった。それから、タオルに包んだすずめを手のひらにのせ、私たちは再び我が家へ戻った。
「学校へ行ってくるからね、少し待ってて」と声をかけ、籠の中にすずめを横たえ、家を出た。
3時間がとても長く感じた。
私たちの間の話題は、すずめのことばかりだった。
そう言えば、私の弟は小さいとき堀内誠一さんの『こすずめのぼうけん』という本が大好きでボロボロになるまで読んでいたなあ。そんな話をすると、奇遇にも 長女はうちにはないその本を読んだことがあると言う。私はとても不思議な感覚を得たのだった。どこで読んだのだろうか。

「あのすずめもぼうけんに出たいと元気になって部屋の中を飛び回っているかもよ。窓から出られないと困っていたら、どうする?」
すずめの話でもちきりだった。帰り道私たちは急ぎ足だった。
「すずめにはやく会いたい。」
我先に、すずめとの再会を待ち望んでいた。私たちの期待とは裏腹に、小さな胴体は冷たくなっていた。タオルに包まれたままの姿で身動きもせず、すずめは静かに息を引き取った。

「すずめは本来野生の中で誕生し、野生の中で昇華していくもの。人の手にゆだねられるべきではない。」
私はもう一度心の中で復唱した。
時間が経てば人は成長する、身体的にも、精神的にも。そして、いつか大人になる、大人になるってどういうことなのだろうか。知識が増えること?感覚が鋭 くなること?生まれてしまったら母の体内に戻れないように、大人になってしまった者はもう、子どもに後戻りはできないのだろうか。母は願う、娘たちよ、 ゆっくり大人になってください。人生は巻き戻しができないとわかっているのなら。

2010年2月26日
ある日の日記より