もういっぴきの*『名なしのこねこ』

昨日、私の家に大きな小包みが届いた。
内容、「本」と書かれた箱をわくわくしながら開けてみる。
何冊もあった絵本の中の『名なしのねこ』という題の本に手が伸びた。
猫好きの知人が猫好きの私たち親子のために厳選した一冊だ。
早速、「今夜の一冊」として、就寝前、娘二人と一緒に楽しんだ。
猫好きの作者が公園で拾った子猫を育てていくという心温まる物語に、娘たちは「可愛い!よかったね!」と言いながら・・・。しかし、読み進めるうちに、私の脳裏には、もう一匹の名なしの子ねこが浮かんできた。

大学4年、ちょうど卒業論文に追われて忙しいときだった。
大学の近くに下宿していた私は、その日の朝、ミャーミャーと繰り返し鳴く子ねこの声で目を覚ました。午前中に卒論ゼミがあるので、そろそろ起きなければと 思っていた矢先のことだった。急いで学校へ行く支度を整え、今日の発表のための原稿をかかえて、家を出ようと外へ出る。
先程の子ねこは、まだ鳴き続けている。それもうちから近距離と思われる場所で。あまり時間に余裕はなかったが、とても気になったので、鳴き声のする方へ 足を向ける。探せど探せど、子ねこの姿は見えない。しかし、「ミューミュー」、私の声に反応するかのように子ねこは鳴き続けている。まさか・・・と思いな がら、道路わきの側溝を恐る恐るのぞいてみた。やっぱり・・・泥水に半身浸かった子ねこが、はい上がることもできずにそこに居た。きっと昨日のどしゃ降り で流されてしまったのだろう。親猫の気配もない。ぼろぎれのような茶トラの子ねこは、私の手のひらにのるほど小さく、ガリガリにやせていた。
授業に遅れてしまう。我にかえった私は、とりあえず、子ねこを拾いあげ、タオルを敷いたバケツの中に入れ、うちの玄関先に置いていくことにした。後ろ髪 引かれる思いで、私はその場を去った。1時間半の授業のうち、後半が私の持ち時間であった。授業直前に私は今朝の話を教授に告げ、私を先に発表させてくれ るよう頼んだ。そして、私は早退し、再び子ねこが待つ家へ走った。
子ねこは、バケツの中でぐったりとしていた。私はすぐに国道沿いの動物病院へ向かった。朝も早かったせいか、待合室には誰もいない。まもなく「どうぞお 入りください。」看護婦さんに案内され、奥にある診察室へ進んだ。「どうしましたか。」と言いながら子ねこをのぞく獣医さんの表情が一瞬曇った。「これは いけない。今日はこのまま、うちでおあずかりします。また明日来てください。」私は、診察室を後にした。受付で私の連絡先を聞かれたので、必要事項を記入 し、再び学校へ戻った。
翌日まで何をしていたのか、どこへ行ったのか、全く記憶がない。翌朝、開院時間少し前に私は動物病院へ到着した。獣医さんは子ねこの状態を詳しく説明し てくれた。口の中にうじ虫がわいていて、看護婦さんと二人でひとつひとつピンセットでつまみ出したこと、栄養失調なので、点滴を行ったこと、おそらく生後 1ヶ月にも満たない子ねこで、親猫とはぐれてお乳が飲めないまま何日も経過していたこと。子ねこは新生児が入るような保育器の中ですやすや眠っていた。
一旦胸をなでおろし、帰宅したが、何をするわけでもなくぼんやりしていた午後、電話のベルが鳴る。悪い予感がした。恐る恐る受話器に耳を近づける。「も しもし・・・」「最善を尽くしましたが、子ねこちゃん助けられませんでした。」獣医さんは私の胸の内を察している。「子ねこちゃん、どうしますか。」と穏 やかな口調で私に尋ねた。私は「今日の授業が終わったら、取りにうかがってもよろしいですか?」と答え、受話器を置いた。
後から後から流れてくる涙を拭きながら、私は自分の対応が遅れたため、子ねこを死なせてしまったのかもしれないという後悔にかられた。
夕方、家にあった菓子箱にタオルを敷いて、動物病院に向かった。あふれてくる涙を止められず、子ねこを受け取る。「ありがとうございました。」私は他に発する言葉を見つけられなかった。受付で、昨日から今日までの診察料を払おうと窓口に立ったとき、さっきの獣医さんが出てきて、「のらねこだよね。お金は 要りませんよ。連れて来てくれてありがとう。」と私に告げたのだった。
子ねこを引き取ったは良いが、一体私はどこに埋めてあげればよいのだろう。ここにはあと数ヶ月しか住まない。人の家だし・・・、私は実家に帰ることにし た。夕方だったので、国道はかなり混んでいた。迂回のつもりで、普段通ったことのない細い路地に入った。再び運命の出会い、私は猫の死体をひきそうになっ た。私は何も考えずに車から降りて、猫の死体を抱きあげた。まだひかれて間もない新鮮な死体だった。私は新しい死体を子ねこの隣に寝かせ、目を閉じさせ た。
実家では母が夕食の準備をしていた。「あら、お帰りなさい。」驚いた様子もなく、母はいつもの様子で私を迎え入れた。「猫を二ひきもってきたんだけど・・・」私は箱を指さした。松の下に埋めてあげたら、という母の言葉に従い、私はたった一人で二ひきの猫を埋葬した。
名前さえつけてあげられなかった子ねこと私の物語は終わってしまった。

20年たった今、思い出すのは、子ねことの出会いよりも、「のらねこだよね。お金は要りませんよ。」と言ってくれた獣医さん。名なしの子ねこのおかげで、私はこの獣医さんとめぐり会うことができたのだ。さり気ない一言が心に刻まれる。私はこんなふうに、たくさんの人から投げられた温かいボールを受け取りながら、成長させられているんだな。

2008年1月30日の日記より
*『名なしのこねこ』 著者:とりごえ まり アリス館