私が母から学んだこと(その1)

私の母は私を産む前からピアノ教師をしていた。専門は声楽だったらしいが、家では専らピアノだけを教えていた。私も3歳ぐらいから彼女の命令でピアノを習うことになったのだ。
家には立派なグランドピアノがあり、それはピアノ専用の私たちが「ピアノの部屋」と呼んでいる場所に収められていた。冷んやりとする北側にあるその部屋 へ足を踏み入れるときには、子どもながらに少々緊張したものだった。それは私の意識のどこかに、母の聖地へ侵入するという気持ちがあったからだろうか。
母はいつも私を含めたピアノを弾くすべての人に対してこう言っていた。
「ピアノを弾く前には必ず手をきれいに洗ってください。」
理由はなかった。それは母が職業とし、大切にしているピアノに対する尊敬の気持ちの表れであったのかもしれない。
そして現在、私は母とは別の職に就いたが、これから本を開こうとする人や子どもたちに対して、「本を読む前には手をきれいに洗ってください。」と言っている自分に、あの日の母を重ねる。
ドイツの偉大な教育者ルドルフ・シュタイナーは0歳から7歳の子どもは模倣をしながら学んでいくと言うが、40歳を前にした私は、今もなお模倣しながら学んでいることに気付くのだった。

2006年6月15日の日記より